黄土色の街灯が足元に折り重なったゴミをちらつかせる、夜明け前の高速道路。 常に一定のエンジン音とロードノイズが眠気を誘う。 (すっかり、遅くなってしまった) 男は家路を急ぐ。 アクセルを踏む足に力が入ったものだった。 頬杖をついては、遠くを流れるまばらな灯りを眺める。 何の意味もない習慣。 通勤と呼ぶには少々遠い距離に、男は幾度となくため息を重ねた。 それから幾分過ぎただろう。 ふと、雑音が遠くに聞こえた。 淡々と身体を揺らす三三七拍子が心地良い。 男の意識はいつしか遠い所にあった。 車体はふらつきながらも、尚も止まる事は無い。 たん、たん、とん。 たん、たん、とん。 一定のリズムが身体を揺らす。 その振動は眠りをより深いものへと変えてゆく。 仕事の疲れもあってか、男が目覚める気配はない。 『危ないですよ!』 ノイズ交じりの声に男は飛び起きた。 目覚めると目前に迫ったガードレール、舌打ちと共に息を呑む。 反射的にハンドルを大きく切り込むと、甲高いスキール音と白煙を上げ、後に停止した白い軽自動車。 焼けたタイヤの臭いが立ち込める車内で、男はハンドルに額を寄せた。 ラジオから声が聴こえなければ自分は今頃……。 男は肝を冷やす。 汗ばんだ手の平を太ももで拭い、バックミラーに目をやる。 幸い、後続車はなかった。 『高速道路では、夜明けが一番事故率が高いそうです』 震えた溜息と共に、再びアクセルをじわりと踏み込む。 先刻までの眠気は嘘の様、すっかり目が冴えてしまった。 夜明け間近の高速道路、古臭い軽自動車の白いボディを蒼く染める。 ラジオから淡々と続く楽しげな声は、亡くした姉によく似ていて随分と懐かしく感じた。 どうやら、居眠り運転の話題だったらしい。 『眠いなー、と思ったらパーキングで休憩をとって下さいね。それでは』 それっきり無音になるラジオ。 男は促される様にゆっくりとハンドルを切り込み、パーキングの片隅に駐車する。 ハザードランプと心音が同期していた。 朝焼け琥珀を見上げながら、ペットボトルのキャップを捻る。 喉を鳴らし、一気に流し込んだミネラルウォーターは何とも味気ない物だった。 握り潰したペットボトルを助手席へと放り投げると 積み重なっていた弁当の空き箱に当たり、硬い音を立て座席の下へと消える。 (片付けないとなぁ) 思いながら乗り込もうとした時 何とも名状し難い違和感に動きを止める。 (……電源が入ってない) カーステレオの電源ボタンを押すと 白く眩い文字で「HELLO!」と表示された。 (さっきのラジオの声は一体?) ──そして、短夜は明ける。 交差点をざぁざぁと流れる車をぼんやりと眺め、何の関連も無い人々の話題を聞き流していた頃、 単音のメロディは無気力に『とおりゃんせ』を奏でた。 ずり落ちそうになった鞄を肩にかけ直し、木陰から一歩踏み出す。 いよいよ夏も本番、と言ったところ。 すれ違う人々は眉間にシワを寄せ、どれも同じ様な顔に見えたものだ。 湿り気を帯びた風と、アスファルトの照り返し。 乾いた音を上げ崩れる空蝉。 とめどなく流れる汗と肌に纏わり付くシャツ、どれもが苛立ちの元凶。 だらしなくネクタイを緩め、胸元を扇子で扇ぐ同僚もまた、しかめっ面をしている。 時折前髪を揺らす涼風だけが心の甘味処だった。 「はいはい、分かった分かった」 昨夜の出来事を同僚に話してはみたものの 気力を奪う真夏の日差しと、もはや風物詩と呼ぶに相応しい怪談話という事もあってか、全く取り合ってはくれない。 「お前さぁ、もう少し信用してくれてもいいんじゃないか?」 立ち止まった同僚は、今にも吹き出しそうな顔をしていた。 腕にかけたままになっていた上着のポケットからハンカチを出し 額の汗を拭いながら「信用を得られるように頑張ってくれたまえ」と適当に笑い、行き着けの定食屋の暖簾をくぐる。 「おーい。俺、弁当持ってるんですけどー」 手に持った鞄をかかげ、背中に呼び掛けたが時既に遅し。 綻んでいた顔は溜息と共に無表情へと変わる。 背後から聞こえた自転車のベルに、男は知らぬ間に人の流れを断ち切っていた事に気付く。 下げた頭に舌打ちを受け、釈然としない思いで最寄の公園を目指し歩き始めた。 かつては活気に溢れていた商店街、今は錆びたシャッターが目立つ。 駄菓子屋に群がる子供達の自転車を避けつつ、打ち水された時計屋の前に差し掛かった時。 『でね、占いとか信じてる訳じゃないんですけど』 聞き覚えのある声に男は歩みを止める。 古いラジオから聞こえたノイズ交じりの声。 昨夜、車で聴いた声に違いなかった。 『騙されたと思って買ってみたんです、宝くじ。そしたら当たっちゃって──』 相変わらず、ラジオからは楽しげな声が続く。 透き通った声、男は引き込まれるようにラジオに近づく。 『いえ、違いますよー。そんな大金当たってたら皆さんと食事に……ちょっとー、やめて下さいよぉ』 「何か、お探しかな」 店員の声を筆頭に街のざわめきが動いた。 「……ラジオ、聴いてました」 「ラジオ?ウチはかけてないよ」 「そんな、まさか」 男は笑いながらラジオに視線を落とす。 「電源、入ってなかろう」 「……そうですね、スイマセン」 暑さでボーっとしているのだろう、と自身を強引に納得させた男の背に 『とにかく。宝くじ、買わないと当たりませんよー』と言ったきりラジオは聴こえなくなった。 (宝くじ、ねぇ) ふらふらと、覚束無い足取り。 されど導かれるかのよう、男は宝くじ売り場を目指した。 寂れた宝くじ売り場。 カウンター内で新聞を読んでいた強面の中年は、無愛想に「何」と一言。 男は宝くじを買おうと一時は口を開いたが、すぐに閉ざす。 今買うのだから、今結果が欲しい。 せっかちな男は、すぐに結果の分かるスクラッチくじを三枚購入する事にした。 カウンターの片隅、釣銭の十円玉で一枚目を削る。 削りながら「なけなしの金、無駄遣いではなかっただろうか」などと悔やんでいた。 横一列に同じ絵柄が三つ揃えば、当たり。 男は柄にも無く胸を躍らせ、銀の隙間から覗く絵柄を見詰めていた。 カリカリと音を立て ポロポロと剥がれ落ちる銀。 絵柄は……。 うさぎ! うさぎ! ケーキ! はずれ。 中年男はその様子を見て、いやらしく口角を上げた。 暑さと相まった苛立ちで右の眉がピクリと上がる。 咳払いと共に気を取り直し、二枚目を削り始めた。 カリカリ、ポロポロ。 カメ! カメ! うーん、イヌ! はずれ。 ちくしょう!と声にさえ出さなかったが 大きく息を吸い込みカウンターに目をやると、ニタニタと笑う中年男。 男はやり場の無い怒りを、三枚目のくじにぶつけた。 ガリガリガリガリ、ボロボロボロボロ。 口をくの字に曲げた男は、目にも留まらぬ速さでくじを削る。 飛び散る汗、舞う銀。 激しい摩擦から十円玉は発熱し、男の指は銀で黒く変色していた。 男は、無我夢中で削り続ける。 待ち行く人々は、その異音に振り返り何事かと目を白黒とさせていた。 やがて異音は静まり、息を乱した男の掌中には破けたくじ。 その絵柄は……。 カメ! カメ! カメ! 「あ、当たった」 極力素っ気無く言った。 眉をひそめた中年男に向かい、勝ち誇ったかのように鼻を鳴らす。 小窓から当たりくじを手渡すと、老眼鏡を少しずらし、いかにもつまらなそうにくじの絵柄を確認していた。 横一列に並んだ亀。 わざとらしい舌打ちと共に、叩きつける様に賞金を支払った。 「三千円、か。飲みにでもいくかな」 誰に言うわけでもなく呟いた男は、ベンチに腰掛け足を投げ出す。 さらさらと頬をつたう汗を小さく丸めたハンカチで拭いながら、遅くなった昼食をとった。 午後。 効きの悪い冷房に包まれたオフィス。 淡々とキーボードを叩いていると、いつも通り、同僚からのメールが届いた。 同僚のデスクに目をやると、視線を合わせると無意味に両眉をピクリと上げ、忙しなく扇子で扇ぎ始めた。 何の根拠も無い社内の噂話に適当に返事を返しながら、期日が明日に迫った企画書を纏める。 ありきたりで、静かな昼下がりだった。 夕刻。 驟雨が裏通りの錆びた螺旋階段を叩いていた。 鞄を傘代わりにして、駅前の駐車場までを小走りに急ぐ。 「そう急ぐな、夜道に日は暮れん」 随分と後方を歩く傘を持った同僚は、妙に落ち着き払っていた。 再度振り返ると、信号は静かに点滅を始める。 小気味よく水溜りを踏み鳴らしていた足を止めた。 「あー、お前が遅いから……。ここの信号待ち長いんだぞ」 「どんまい、気にするな」 肩を揃えると、傘を半分差し出した同僚。 ささやかなで当然の気遣いに、身体を一歩横にずらす。 「そう言えばさ。宝くじ、当たったんだ」 そわそわと、思い出したように言った。 「小遣い増えてよかったじゃん」 「久々に、行くか?」 お猪口を揺らす手付きが妙に手馴れた男。 「ばーか、早く帰らないとカミさんにどやされるんでな」 手に持っていた扇子を畳み、二本の指で頭上に鬼の角を作る。 それを胸元で組み直し「これにてドロン」と古典的な滑り芸を披露してみせた。 「なんだぁ、付き合い悪いな」 すっかりビショビショになった裾を絞りながら言う。 街行く人はどれも俯いて肩を落とし、上目遣いに信号を見詰めていた。 『そうなんですよー、急に飛び出してきてビックリしました』 唐突に声が聴こえた。 男は反射的に周囲を見渡したが、ラジオは見当たらない。 「お、車来てないぞ。行こう」 「ちょっと待ってくれ、ラジオが──」 駆け出した同僚に背を向け言った。 『皆さんも、飛び出し注意ですよー』 「飛び……出し……?」 男は振り返り、同僚を目で追う。 「……危ない!」 スーツの袖を引き返す。 怪訝な顔をする同僚の後ろを、ワゴン車が中央分離帯を乗り越え信号機を薙ぎ倒していく様は悪夢のようだった。 途端に街はざわめきに溢れ、坩堝と化す。 携帯を片手に写真を撮る者も居れば、他人の不幸を笑う者も居た。 「何お前、ニュータイプ?」 「別にそんなんじゃねぇよ」 野次馬を掻き分け、逃げるように駐車場を目指した。 キーを回しながらアクセルを踏み込むと、軽快なエンジン音がかび臭い車内に響いた。 軋む座席に身体を預け、無意味にルームミラーを覗きながら男は考えていた。 時折、不意に聴こえてくるラジオ。 紛れも無く男の運命を暗示している。 1度目は高速道路での事故。 2度目は宝くじ。 3度目は同僚の事故。 ラジオの出現で、全てが上手くいった。 これを単なる偶然で片付けるのは、あまりにも不自然だ。 (神様からのご褒美か?) 後頭部で指を組んだ男は、何の根拠もない見解を始める。 若くして姉を無くし、家族がバラバラになった。 お世辞にも満たされていたとは言い難いが、それでも一人コツコツとやってきた自分への褒美。 そう考えると、おぼろげながらも事の輪郭は定まる。 そう考えれば、なんとなくでも納得が出来る。 (確実にいい方向へ進んでるんだ。深く考える必要も無いか) オレンジが灯り始めた高速道路。 色あせた軽自動車は、雨を蹴散らしながら家路を急いだ。 帰宅するなり、男は足早に押入れの前に腰を据えた。 埃っぽい毛布を退けると、湿気たダンボール箱が顔を出す。 手荒にガムテープを剥がすと、過去を彩っていた物の数々があった。 (ラジオラジオ……) がむしゃらに箱を掻き回せど、一向に目的の物は見つからない。 どこに入れたのか、そもそも所有していたのか。 どうも腑に落ちない様子の男は両足を投げ出した。 「ラジオが家にあればなぁ」 そうだ、ラジオがあれば……。 人生がうまくいく方法を知ることが出来る。 失敗を知らない人生を送ることが出来る。 万難を排することが出来る。 だから、自分にはラジオが必要だ。 男は強く願う。 ラジオがあれば、と。 『ほら、運動なんて滅多にしないじゃないですか。それでちょっと体重増えたかなーって』 いとも簡単に奇跡は起こった。 男は立ち上がり、部屋を見渡す。 「一体どこから……?」 尚も続く音の聴こえる方向へと導かれていく男。 ふらふらと、覚束ない足取り。 されど、確実に一歩ずつラジオに近づいていく。 そして男の眼前に現れた、下駄箱の隅に置かれた青い花柄の木箱。 「これ、姉貴の……」 生前、姉が『だいじなものいれ』と呼んでいた木箱。 男が幾度となく勝手に開けようとして怒られた木箱。 誰の目にも、『大事』には見えない物が入った木箱。 無意識に、手を伸ばす。 あの頃と同じ気持ちにはならなかった。 なぜなら、男は思い出していたから。 姉が大切そうにしまっていた物を、思い出したから。 徐に蓋を開けると、当時のままの『だいじなもの』が整然と収められていた。 その中に、赤い電源ランプを輝かせたラジオがあった。 「そういうこと、なのか……?」 手の中で鼓動を打つ様 柔らかな点滅を繰り返すランプに問いかけた。 紅茶色の記憶、鮮やかによみがえる。 彼女が、そうを望んだから。 死んだら、何も残らない。 確かに、そうかも知れない。 でも、それが終わりじゃない。 本当の終わりは、忘れられる事。 ただただ、そう伝えたかった。 彼女は、それを伝えたかった。 そして、男はそれを理解した。 漠然としていた考えは一本の線を引いた。 不甲斐無い弟を見守る姉の成すラジオ。 それが、全てなんだと、男は一人頷いた。 翌朝。 男は枕元に置いたラジオの声で目覚めた。 『最近、運動不足だなぁって』 いつもは悪い目覚めも、極めて爽やかなものだった。 寝ぼけ眼を擦りながら眼鏡をかけ、頭をニ・三回掻き毟る。 暫く、そのままの体勢でラジオから聴こえる声に耳を澄ましていた。 『ほら、運動なんてなかなかする機会ないじゃないですか?』 (確かに、してないなぁ) 締まりのない胴回りをさすりながら頷く。 『栄養バランスのとれた食事と適度な運動、皆さんも始めてみては?』 適度な運動。 繰り返し呟いては、無言になったラジオを見詰める。 「……はいはい、運動ですね」 男は立ち上がり小さく伸びをすると、いつもよりも随分と早い出勤をした。 「うーっす」 「あれ、今日は車じゃないのか」 事故の後が生々しい交差点で、二人は合流した。 男は自転車から降りると、足並みを揃える。 同僚は忙しなく扇いでいた扇子を男に手渡すと、腕にかけていたスーツに袖を通した。 「たまには運動しないとさ」 相変わらず、頬を伝うさらさらの汗を拭いながら適当に返す。 へぇ、と素っ気無い返事を受け、暫く歩いた所で 「お前、高速乗って通勤してなかったっけ」 と、当然の声。 「うん」 「……はぁ?ここまで何時間かかったんだよ」 男はわざとらしく指折り時間を数えてみせる。 「4時間位かな」 外国ドラマのようにお手上げをした同僚に、 適当に言葉を浴びせながら二人は会社に到着した。 この日、男は中々仕事が手につかなかった。 普段なら考えられないミスを連発しては、下げたくもない頭を下げる。 そんな時でさえ、男は別のことを考えていた。 ここにラジオはないのか、と。 (くそ、苛々する) 顔を真っ赤にして怒る上司。 その後ろで声を殺し笑う同僚。 ちらちらと視線を送るもの。 今の男には、全てが些細に映った。 早く、ラジオが聴ける場所にいかなくては。 ラジオがあれば、こんな苛立ちも消える。 ラジオ……、今ラジオが必要だ。 「すいません、体調悪いんで帰ります」 水を打ったように静まり返る社内。 男は手荷物をまとめると、上司の怒鳴り声を背に受け足早に会社を出た。 「さてと、ラジオはどこかなっと」 自転車を走らせ、汗みずくの身体に涼風を受ける。 徒歩では味わえない開放感。 男は、暫し当て所ない旅路を行った。 日は高く、アスファルトからの照り返しが強く感じた。 ふと気付けば、随分と人通りが多くなっている。 どうやら無意識に駅方面へと進んでいたらしい。 頭の地図には存在しない街。 辺りを見渡せど、ここがどこであるのか確証を得られなかった。 何も知らぬ街で、信号が青に変わる瞬間を待つ。 何も知らぬ街でも、ルールに従う己が不思議だった。 (……電気屋、か) 少し離れた所に見えた見慣れた青い看板は、今時どこの街でも見られた。 大型チェーン店だ、ラジオ位は置いているだろう。 男は気を取り直して、再度ペダルを踏み込んだ。 正面入り口付近に駐輪すると、開け放たれたドアから漏れる冷房が気持ち良い。 ため息混じりにネクタイを緩めると、踵を鳴らしながら階段を上がる。 店内は活気に溢れており、随所で赤い値札が冷房で揺れていた。 暫く呆気に取られていた。 外との温度差からか、意識が点滅を繰り返す。 ざわめきが、遠くに聞こえた。 『最近、外が怖いんです』 ノイズ交じりの声は、唐突に聞こえた。 (外?何の事だ?) 『えー、だって事件とかに巻き込まれたら嫌じゃないですかー』 (つまり、俺が事件に巻き込まれる。ってか?) 『一歩外に出ると言う事は、誰にでも可能性があると言う事ですよー』 (姉貴、ちゃんと教えてくれよ。なぁ) 「お客様?」 ざわめきは動き出す。 尚も朦朧とした意識の中で「いえ、結構です」と言葉少なに返すと男は足早に踵を返した。 自動ドアが開くのを待ちきれず、強引に押し開けると再び体を包む熱気と雑音。 照り返し、談笑、電子音、排気音、目が回る。 気持ちが悪い。 行き交う人は、互いを知らない。 突如として男の心中に不安が溢れた。 そうだ、この人ごみの中、一つとして知った顔がない。 同時に自分の存在すら証明出来ずにいる。 人ごみに埋もれた、人。 相手が、どんな人間で、何を考えていて、何をしようとしているか。 自分には知る術がない。 そして、止める術がない。 一歩外に出た瞬間から、安定は失われ、常々不安定な世界で安定を続ける。 そんなこと、出来るはずがない。 ありえない、そんなこと。 そうだ、ありえないんだ。 ………………。 「アイツが来なくなって、もう一週間か」 男は扇子をデスクに投げ、足を放り出す。 昼食の話題は上司にこっ酷く叱られ、出て行ったきりの同僚の話だった。 「連絡もないし、心配よね」 向かいのデスクに座った妻はペンを走らせながら言った。 うーん、と呟くとそれに続ける言葉も見つからず、無言状態が続く。 男はどこか落ち着かない様子で、扇子を広げては畳み、時計を見ては、扇いだ。 ちくちくと、時計の針の音が聞こえる。 その長針は無神経にも昼休みの終了を告げようとしていた。 効きの悪い冷房の低い異音が一段と高くなった時。 「ねぇ、あなた様子見てきたら?」 妻はペンを置き、旦那を見つめた。 男も、今まさにそれを言わんとしていた。 「あぁ、そうする」 互いに答えは決まっていたらしい。 夫妻は言葉以上に、感情を伝達する術を知っているのだろう。 詳細な会話も少なく、妻は虫の居所の悪そうな上司に事情を説明し、 住所を聞き、ついでに旦那を早上がりさせる様にと、話をつけた。 「よく、休み貰えたな。何て言ったんだ?」 「言わない、言えない」 どこか自慢げな妻に営業車のキーを受け取ると、男はオフィスを後にした。 街から随分と離れた、寂れた住宅街。 その一角に同僚が住んでいるマンションはあった。 マンションと言ってしまえば聞こえは良いが、剥き出しの土壁に塗装の割れた階段。 至る所が錆び、仕舞いには廊下に雑草まで生えているエレベーターなしの六階建ての古いマンションだった。 男は胸ポケットから妻に貰ったメモを取り出すと、表札と照合しながら廊下を歩いた。 「サンマルゴー……サンマルゴー……。っと、あったあった」 305号室。 表札とメモを見比べる、間違いない。 男は扇子を畳むと、連続でインターホンを押す。 暫くそうしてドアの向こうから返ってくる音を聞いて笑っていたのも束の間、応答がない事に気付く。 (あんにゃろー、留守かぁ?) 無意識に手をかけたドアノブはあっさりと回った。 施錠されていない。 「おーい、入るぞー?」 男は念を押して、一声かけてから玄関を上がった。 まだ日も高いというのに、カーテンを閉め切った室内。 外とは明暗の差が激しく目が慣れるまでの間、暗闇の状態が続く。 やがて、闇にぼんやりと浮かんできたシルエット。 力なく壁に頬を寄せた同僚が居た。 「なんだ、居たなら返事位──」 男は言いかけてやめた。 何やら様子がおかしい。 誰に言うわけでもなく、同僚は部屋の隅でぶつぶつと小言を繰り返している。 「おい、大丈夫かよ?会社の奴らも心配してるぞ。携帯も繋がらな──」 「ラジオだ……。ラジオが、聴こえないんだ」 男の言葉にかぶせて、同僚は呟いた。 「ラジオ?何の事だ?」 「壊れてないのに、聴こえないんだ。聴こえてたのに、壊れてなかった」 平仄に合わない言葉をただ繰り返すばかりの男。 「ラジオ……ラジオが……ラジオが――」 「これの事か?ラジオって、これの事なのか?」 「あああああああああああああああああ!!?」 耳を聾する叫びだった。 度を失った様子を見て、動揺を隠し切れなかった。 「ラジオが壊れたんだな?ほら、修理してやるから貸せよ」 だからこそ、男は冷静に対応した。 この様子からして、同僚は「まともではない」と容易に判断出来たから。 変に刺激を与えるよりは、幾分マシではないかと判断したのだ。 緊迫した空気が続く。 長い沈黙の後、作戦が功を奏したのか、同僚は涙目になりながらも握り締めていたラジオを差し出す。 男はそれを受け取ろうとしたが、戸惑っているのか手放そうとはしなかった。 「明日、持って来るから。な?」 同僚は「それ」をゆっくり手放すと、安堵した様子で深い眠りに落ちた。 夜。 男の箸はとまったままだった。 「どうかした?」 「ん、何が?」 「難しそうな顔、してたから」 妻の勘に驚く様子も見せず、男は徐に口を開く。 「今日、アイツの家行っただろ」 箸を置き、頬杖を突きながら適当に相槌をうつ妻は割合真剣な眼差しをしていた。 「それで、言うんだよ」 「何て?」 「ラジオが聴こえない、ってさ」 コップの横に立てていたラジオを見詰めながら言う。 いまいち、話を理解できていない様子の妻だったが、構わず男は話を続けた。 「それで見てたんだけど、故障してる様子は無いし」 「ふーん、変なの」 「まぁ、明日返してくるよ」 ──しかし、このラジオは主の元に返る事はなかった。 深々と降る雨の中。 傘で顔を隠した喪服姿は絶えず列を成していた。 「まさか、アイツが自殺なんてなぁ」 「うん……。私、未だに信じられないよ」 遠くから眺めていた男はうわごとの様に呟く。 あの時、自分が助けて居れば。 ありもしない幻想に罪悪感が募る。 俺の、失敗だったのか……? その問いかけに、答える者は居ない。 やがて列も途絶え、思い出話に花が咲いていた頃。 妻が机の下で袖を引っ張るものだから、男は仕方なく表に出た。 「明日早いから、先に夕飯の買い物して帰ってるね」 「おう、俺はもう少し話してから送ってもらうよ」 小さく手を振る妻を見送ると、一人になった男。 再び自問自答の時間が訪れた。 本当に、俺は悪くないのか……? 答えが欲しい。 例えそれが戒めだろうと、懲らしめだろうと。 問いに対する答えが、欲しい。 『じゃあ、誠意を見せないと』 どこからともなく聞こえた声は、俺に答えを与えてくれた。